アミンタ 作品5

「弓」

 矢は、右へ外れた。 風に流される分を見込んだが、ふと風が止んだのだ。
 その前に放った矢は、的の手前で地に刺さっていた。
 先ほどから新三郎の放つ矢は、的に当たったためしが無い。
 使い慣れた場所であるのに、十五間先の地面すれすれに置かれた的が、いつもより遠くなったように見えはじめていた。
 昨年、十三歳で元服した際用意した弓は、彼の背丈が伸びた為十分な引きが取れなくなっていた。そこで今朝から二寸長いものに換えたのだが、今ひとつ加減が呑み込めていなかった。
 新しい弓は思ったよりも弦の返りが早かった。
「当たりませぬなあ」と上の妹が不満げに言うと、「あたりませぬなあ」と下の妹が、回らぬ口でまねをした。上の千世は六歳。下の登代は四歳になったばかりである。
 いつもは苦も無く的を射当てる兄を誇らしく思っている妹達は、今日の不手際に、しびれを切らし始めたらしい。二人は、普段は屋敷奥の中庭に突き出た母屋の縁で、お人形や飯事遊びをしているのだった。それが、兄が弓の稽古を始めると時々見に来ては、母親の元へ得意になって報告に戻るのである。
 新三郎は、男勝りの弓の名手といわれた母親の血を引いている為か、小さな頃から不思議と勘が働いて、滅多に的を外すということが無い。それだから、一族の者やこの家に仕える古い下人達からも先々代様に生き写しだの、若様なら波栗党も安泰だのという声が聞こえて来ている。
 昨年、代々国主を務めた織田宗家を倒して、波栗家や戸田、青山、蜂屋、内藤等の南尾張の諸豪族を従えた信長が、この尾張の国を統一した。
 しかし、それで終わるはずはないと誰もが思っているから、そろそろ大戦が近いのではないかという噂がもっぱらであった。事実、最近三河から戻った商人によれば、駿河では刀と米が良い値で売れるという話である。
 今、波栗一党を率いている新三郎の父、次郎左衛門宗重はこの地の名門堀田家から婿に入った人である。一族の結束を高める上でも、最も正統な後継者である新三郎に対する周囲の期待は並ではないものがあった。それは、当人の新三郎もよく承知していることだった。
 彼は、誰の目にも恥ずかしくない腕前を常に示さなければならないと、いつも自分に言い聞かせていた。
 ところが、今日に限って急に矢が当たらなくなったのである。
 戦が近いかも知れないのに、普段は上々の腕前を見せる宗家嫡男の矢が当たらないのだ。
 弓は古代から神聖な武器として扱われて来た、いわば武家の象徴である。その上、戦では神仏の加護が大事とされている。
 普段の稽古と言ってしまえばそれまでのことだが、吉凶などと言う意識が家中に広まると厄介なことだった。
 気のせいか、館は奇妙なほどに静まりかえっていた。
 矢場は、厩のある広い裏庭の中ほどに、竹林に面した土塁に向けて設けられている。特に見ている訳ではなくても、家の用事をしている者達からは、的が良く見えているはずである。庭ではいつも五六名の男たちが馬の世話やら武具の手入れやらで立ち働いている。そこへ母屋の下働きをする女たちが加わるから、普段はかなり賑やかである。
 新三郎は、思わず庭に出ている男や女達を見回した。
 しかし、誰一人こちらを向いている者は居なかった。皆其々の持ち場で一様に目を伏せて、そ知らぬ顔をしている。だがそれは却って、彼らの意識が新三郎に注がれていることの証でもあった。

 ――次こそは。

 新三郎は鼻で深々と息を吸い込んでから、弦を大きく引き込んで、また放った。
 すると、今度は上ずって後ろの土塁の小石に当たり、砕け散った土の破片と共に、跳ね返されてよろよろと地に落ちた。
 新三郎は色を失って立ち尽くした。
 本来なら矢をいま少し重いものに換えるべきであったのだ。
 これには妹達も流石に驚いたらしく、こんどは何も言わずに下を向いてしまった。
 まるでその場の人々の動揺を察したかのように、ちぎれ雲が日に照らされて、陰を作りながら新三郎達の上を横切っていった。
「おお、上達なされた。良い形でござるな」
 突然の太い声に、驚いて振り向くと、盾のように角ばった肩をした大柄な老人が立っていた。
「よろしゅうござる、よろしゅうござる」
 老人は、慌てて向きを変えた新三郎を制するように、両の掌を広げながら言った。
 新三郎は、一族の長老を威儀を正して迎える姿勢をとった。その波栗新五左衛門頼忠は先代の当主、四郎次郎宗政の弟であり、近隣に聞こえた武勇の将でもある。
 もう七十歳を超えていると思われるのに、鋭い眼光と大きな口が、向かう者にまるで大波が押し寄せるような威圧感を与えている。
 新三郎は、前に歩こうとして、思わず足が竦んだのが分かった。
「いや、良いのでござる。お続けになられるがよろしい」
「……」
「ちと、次郎左衛門殿のご機嫌伺いに参ったまででござる」
 老人は、くるりと向きを変えて、すたすたと母屋の方へ行ってしまった。

 ――叔父上様は、それがしの腕前を疑ってはおられぬ。

 新三郎は、ふと肩の力が抜けたように感じた。
 何ほどのこともないではないか、新しい弓が少しばかり元気が良いだけのことだと新三郎は思い直した。

 空の高い方は風が強いのか、切れ切れに固まった雲が、流れるように動いている。初夏の日が、綿のようなこんもりとした雲から顔を出すと、建物の屋根や地面から強い日差しが跳ね返って、あたりが一層明るくなった。
 新三郎は、矢立てからやや太目の矢を選んだ。
 先程までは気が付かなかったのだが、今は頭上を行く鳥の動きもはっきりと脳裏に描かれている。
 彼は、ゆっくりと息を整えてから、弓を少し軽めに引くと、静かに矢を放った。
 今度は、的の中央から上へ、半分くらいに当たった。
 一同から、「おお」と静かな歓声が上った。
 妹達の眼がきらきらと輝いているのが分かった。
 先程まで、荒馬がいきり立っているかのように思われた弓が、今は新三郎の手に静かに納まっている。
 それからは、矢は面白いように次々と当たった。
 幼い妹達が、嬉々とした表情で母屋の奥へ駆け込んで行くと、館にはいつものざわめきが戻ったようであった。

(2007年2月)

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